物語映画とプロモーション動画は、同じカメラを使い、同じように人が映っていても、根のところで別のものだと私たちは考えています。プロモーション動画は何かを伝えるためにある。物語映画は、伝えたいことすら自分でもまだ言葉にできていない何かを、画と時間のなかで掴みにいくためにあります。この違いは趣味の問題ではなく、現場での判断ひとつひとつを変えてしまう。今日はその境目を、作り手の側から書いておきたいと思います。

物語映画は「結論」から始めない

販促の動画は、たいてい結論から逆算して作られます。何を見せ、何を感じさせ、最後にどこへ連れていくか。設計図が先にあり、撮影はその図面を満たす作業になります。それは正しい仕事の仕方で、本体の daishoproductions.com で私たちが企業向けに請け負っているのも、まさにそういう動画です。

物語映画は、その逆を行きます。結論を最初に決めない。登場人物が何をするか、どこで黙るか、どこで顔をそむけるかを、脚本と演出と俳優の呼吸のなかで探っていく。中編の『真夜中の配達アプリ』(2021)を撮ったときも、台本はあっても、夜の街と俳優の身体がそこに置かれて初めて見えてくるものを待ちました。物語映画の現場では、待つことそのものが仕事になります。

脚本・演出・俳優——作品性をかたちづくる三つの層

違いを具体にすると、まず脚本があります。販促の構成台本は情報の順番を決めるものですが、物語映画の脚本は人物の内側の動きを設計するもの。台詞より、台詞と台詞のあいだの沈黙を書くことのほうが多い。

次に演出。何を映すかと同じくらい、何を映さないかを決めるのが演出です。私たちは森や木々、植物のミゾンセン(画面のなかの世界の組み立て)を好みますが、それは背景としてではなく、人物の心の状態を語らせる装置として置いています。

そして俳優。プロモーション動画では人は「役割」を演じますが、物語映画では人は「人」を生きます。説明のための表情ではなく、本人にも制御しきれない揺らぎが映ること——そこに作品性が宿ります。私たちが脚本・演出・撮影・編集・音までを一人の作家がコントロールするのは、この三つの層を一つの体温でつなぐためです。

なぜ「作品」として撮るのか

ドキュメンタリーも同じです。京都の仏師を追った『我休-GAKYU-』(2023)や、奈良の刃物ブランドを撮った『Kikuichi Story』三部作(2022)では、商品を説明するのではなく、手と素材と時間のあいだに流れているものを、一本の作品として残そうとしました。広告の依頼であっても、私たちは作品として撮ります。

理由は単純です。説明はやがて古びますが、作品は残るからです。物語映画が観る人の記憶のどこかに、消えない一場面として留まること——大笑シネマプロが販促ではなく作品にこだわるのは、その一点に賭けているからです。発注を考えておられる方には、まず「何を伝えたいか」より「何を残したいか」から話を始めていただけたら、と思っています。

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